大阪地方裁判所堺支部 昭和35年(わ)35号 判決 1961年12月07日
被告人 山村繁
大一〇・一〇・三一生 無職
主文
被告人は無罪。
理由
本件公訴事実の訴因は、「被告人は、千代田生命保険相互会社船場月払支社堺営業所の外務指導員をしていたものであるが、第一、昭和三五年一月八日午後八時過ぎ頃泉大津市下条六一四番地の一先深喜毛織株式会社紡績工場東側路上において、自己の部下真崎美智子(当時二八年)に情交を迫り同女を押し倒したところ、同女がこれを峻拒し大声をあげて救を求めたのに激昂し、自己の行為の発覚を恐れて同女を殺害せんと決意し、矢庭に同女の頭部及び顔面を該道路北側側溝の水中に押し込み、因つて即時同女をして窒息死せしめて殺害した上、同女の死体を右側溝内に投入して遺棄し、第二、翌九日午後九時半過ぎ頃前記死体を遺棄した側溝内より前記真崎の死体を引き揚げた上、同所より約三〇米西南方同市旭町一二番地先空地の叢内に引き摺つて行き、同所において所携の十字型ドライバーをもつて右死体の腹部、胸部、頸部等を突き刺し或いは引つ掻く等して死体を損壊したものである。」というにある。
よつて検討するに、真崎美智子(昭和年六年三月生)は、独身で泉大津市高津町一三四番地の自宅に居住し、昭和三四年八月から堺市宿院西三丁三番地の八、千代田生命保険相互会社船場月払支社堺営業所所属の奉仕員をしていたもので、同営業所に外務指導員心得として勤務していた被告人の指導のもとに生命保険の勧誘に従事し、現に本件前日の昭和三五年一月七日(以下月日だけの表示は昭和三五年のそれである。)にも午前一一時頃から午後八時半頃までの間、被告人の指導応援を得て泉大津市我孫子、池浦方面へ勧誘に廻り、同市池浦七一二番地の藤原明から保険金額五〇万円の契約申込を得ているのであり、翌八日朝も営業所に出勤して被告人から右藤原方へ医療診査の打合せに行くことを指示されて正午頃一旦帰宅し、母親と二人でバラ寿司を作つて昼食を済ませ、午後二時頃外出して先ず右藤原方へ医療診査の打合せに行き、引き続いてその方面の保険勧誘に廻り、午後六時半頃同市池浦六二二番地の合田ヒサ子方を立去つてから消息を絶ち、一月一〇日午前一〇時三〇分頃泉大津市旭町一二番地深喜毛織株式会社紡績工場(以下深喜毛織と略称する。)南側空地の叢内(以下第二現場と略称する。)において、仰向けの姿勢で死体となつているのを発見されるに至つたもので、以上の事実は、真崎トクヱの検察官に対する供述調書(一分冊二四四丁、以下検察官、司法警察員、司法巡査に対する各調事を検、員、巡調書と各略称する。)、宇都清志の供述書(一分冊三六九丁以下三七五丁裏まで。)、被告人の一月二四日付員調書一ないし六項(五分冊一九一一丁)、小滝マサ子、伊藤シズヱ、高寺節子の巡調書(一分冊三〇〇丁、三〇九丁以下)、小門マツヱ、井阪セン、小滝テイの員調書(三二一丁以下)、小門久枝、小門正子、井畑未子、横山カヅエの巡調書(三三九丁以下)、中垣康雄、藤原静子の検調書(三六二丁、二七三丁)、山根時子、川端久子こと川端寿子、北野房子、東島敏子、小池安喜子、中川日出美の検調書(二分冊六九四丁、七〇二丁以下)、平松優子の巡調書(七一二丁)、金井玉子、佐藤松子の検調書(七一七丁以下)証人合田ヒサ子の証言(第三回公判、二分冊五六五丁)、巡牛島武作成の「殺人事件発生報告」と題する書面(一分冊五一丁)、鈴木正延、近藤孝司の員調書(五三丁以下)、大野三郎、小野秀二の検調書(六七丁、七六丁)、泉大津市長作成の「捜査関係事項照会について」と題する書面(一七二丁)により認めることができる。
しかして、証人松倉豊治の証言(第九回公判、四分冊一三四六丁)、同人作成の鑑定書(一分冊一九八丁)、証人柴田衛敏の尋問調書(四分冊一三八一丁)、証人瀬川章の証言(第六回公判、三分冊一〇五五丁)、同人作成の実況見分調書(一分冊一一三丁)、員渡辺明作成の検証調書(一四四丁)、当裁判所の検証調書(二分冊四四七丁)、技師植田忠作成の鑑定書(六分冊二六〇五丁)、三井広三の検調書(八四丁)、真崎トクヱの一月二一日付員調書(一八三丁裏以下)、大阪管区気象台長作成の「気象資料照会回答」と題する書面(六分冊二二八二丁)を綜合すると、真崎美智子の死因は、多量の塵塊を含む汚水を吸引した結果の溺死であり、その後頭部より右頭部は勿論、鼻腔、口腔耳殻及び耳孔などに泥や塵埃様の物が多量に附着し、衣類まで湿つていたことや、死斑がやや赤調を帯び、手掌、足蹠皮膚がやや著明な洗皮状を呈していたこと、及び死体硬直や角膜の混濁度、死斑などの死体現象に比し胃腸の膨隆度が遅れていることなどに徴して、真崎の死体は相当長時間かなり冷たい水中又はそれに近い状態に置かれていたことが窺われるところ、深喜毛織の東南隅より東方に通ずる同市下条六一四番地の一先路上で、死体の発見された前記第二現場より東北方約三〇米の地点(以下第一現場と略称する。)附近において、留金の部分が破損した真崎の手提鞄(証第一三号)、靴左片方(証第一号)、たぼ止めの破片(証第三号)、ヘヤーピン二本(証第六号)及び真崎と同じAB型指頭大の血痕などが発見され、附近の枯草が押し倒された状態にあつたこと、更にその附近の該道路北側沿に設けられた水深三〇糎前後のコンクリート製溝(巾員五〇糎、深さ五五糎)の中から真崎の靴右片方(証第二号)やヘヤーピン四本(証第四、五号)が発見されていること真崎の着ていた黄色半オーバー(証第八号)の背部一面に雑草「いのこずち」の種子が多数附着しているところ、「いのこずち」は第一現場附近にはあるけれども第二現場附近になく、第一現場と第二現場を結ぶ道路上に物を引き摺つたと認められる跡が二ヶ所あり、真崎の右半オーバーの両肩部より両肘部及び腰部附近並びにズボン(証第四五号)の臀部や大腿部などに地面を引き摺つたときにできるような泥の附着状況が認められるのであつて、真崎の身体が第一現場から第二現場へ移動されたことは明らかであり、更に真崎の死体の前背両面に指圧により消褪しない死斑が形成されているところからして、一二時間以上うつ伏せと仰向けの各姿勢に置かれていたことが推認されるところ、前記以外に特段の事情の認められない本件において、死体発見当時仰向けの姿勢にあつたことを考慮すると、先ず一二時間以上うつ伏せの姿勢に、そしてその後発見当時の仰向けの姿勢に変えられて一二時間以上経過したものと推断されるのである。そしてこれらの事情や前掲証拠及び近藤孝司(但し三項のみ)、小田正平の員調書(五七丁以下)によれば、要するに真崎美智子は、一月八日午後八時すぎ頃以後同夜の間に、人家のない右第一現場附近で何者かにより顔面、頭部、頸部などに打撲傷を負わされたすえ、北側の前記溝の汚水を吸引させられて溺死し、歩行者から発見し難い該溝の水中にうつ伏の姿勢で放置され、翌九日の夜、又何者かが真崎の死体を水中から引き揚げて、同所から約三〇米西南方の第二現場へ引き摺つて行き、同所に仰向けの姿勢に置いて同女が着ていたズボンを引き下げ、又半オーバー、セーター、肌着などをまくり上げてその胸部、腹部などを露出させたうえ、十字型ドライバーをもつてその顔面、胸部、頸部殊に下腹部を突き刺し、引き掻くなどして真崎の死体を損壊したことが認められるのであつて、死体発見南時、バンドのち切れた真崎の腕時計(証第七号)がその腹の上に乗せてあつたほか、真崎の所持品で紛失したものはなく、又姦淫された形跡もないのである。
そこで右の犯人が被告人であるか否かを究明するのであるが、検察官は、
(一) 右殺害の行われた少し前と思はれる日時に、本件現場附近で被告人が被害者と行動を共にしているのを目撃している者がいること、
(二) 被告人が当時着用していたオーバー、ズボンに付着している血痕は、被告人が真崎に傷害を加えた際に付着したものであること、
(三) 被告人が司法察警員及び検察官に対し犯行を自白していること、
などを主たる資料とし、右(一)、(二)のような事実があることをもつて被告人が本件の犯人であると断定するに十分であるところ、更に右(三)の自白をも考慮すれば、被告人が本件の犯人であることは一層明白であると主張するので、以下検察官の主張に沿つて論を進める。
第一、目撃証人
前記の如く真崎美智子が溺死したのは、一月八日午後八時すぎ頃以後と推断すべきところ、検察官の主張によれば被告人は右日時に接着した同日午後七時ないし七時三〇分頃、真崎美智子と二人で我孫子街道を徒歩で西進し、三信紡績株式会社(以下三信紡績と略称する。)の西側を北すなわち深喜毛織方面に通ずる巾員約二米の道に曲つて、深喜毛織の東南角の手前約八米の地点附近に達したもので、その途中である右三信紡績の表門附近で、大浦フミ子に、又右深喜毛織の東南角の手前約八米の附近に佇立しているところを森田八重子、森田精一、森田一雄に、いずれも目撃されているというのである。よつて検討するに、
(一) 大浦フミ子
証人大浦フミ子の尋問証書(二分冊四六二丁)、証人津守治子の証言(第四回公判、二分冊八四七丁)に当裁判所の検証調書(二分冊四四七丁)、員渡辺明作成の実況見分調書(一分冊二八三丁)及びメモ帳一枚(証第三八号)を綜合すると、大浦フミ子(明治四三年一一月生)方は泉大津市池浦五番地三信紡績のやや西寄りでウドン屋を営んでおり、同女は当時真崎美智子と会えば言葉を交す程度の間柄(知合であることについては証人真崎トクヱの証言〔第一一回公判、四分冊一六六二丁〕)で、真崎が千代田生命のいわゆる保険外交員であることも知つていたが、被告人とは全く面識がなかつたものであるところ、一月八日午後七時ないし七時三〇分頃、三信紡績の事務員津守治子の註文によりウドンを持つて我孫子街道に面した三信紡績の表門附近にさしかかつた際、約一五米位前方から右街道南寄りを西に向つて黒色ズボンに白つぽい半オーバ姿の真崎と、その東側に黒つぽいオーバー姿の男性が並んで話しをしながら歩いて来るのを見つつ三信紡績の門内に入つて行つたことが認められる。ところで前掲証人大浦フミ子の調書によると、同女は、右同伴の男性につき「係長か主任かと思つた。(四六八丁裏)とか「背丈はやや男の方が美智子より高いですが、あまり差はなく、男としてあまり高い方ではない。身体はがつちりしていた。」という趣旨のことをいう(四六九丁)のみで、「男の顔ははつきり覚えていない。」(四六九丁裏)といい、又その後同女が被告人を二回面割りした結果の感じを尋ねられて、「顔はわかりませんが……身体の恰好が……美智子と歩いていた人によく似てました。」と答えている(四七一丁、二四七二丁裏)のを考慮すると、大浦フミ子の目撃した男女のうち、女性が真崎美智子であつたことは間違いないけれども、他に資料のない限り右証人の指摘のみでは、男性が被告人であつたとにわかに断定しがたいものがある。
(二) 森田八重子、同精一、同一雄
次に証人森田八重子、同精一、同一雄の各尋問調書(二分冊四九四丁以下)に当裁判所の検証調書(二分冊四四七丁)を綜合すると、森田八重子(大正一三年三月生)と森田精一(大正五年八月生)とは夫婦であり、又森田一雄(昭和一七年一月生)は工員であつて(森田夫妻とは何らの関係もない。)、いずれも従来被告人や真崎美智子と面識がなかつたところ、右森田夫妻は一月八日午後八時すぎ頃深喜毛織の東側を南北に通ずる道路を南方に歩き、右工場の東南角から東南約三・七米の地点(この附近の道路巾は約二米)にさしかかつた際、その前方約四米の該道路西側寄りに一組の男女が佇立していて、男は背広姿で南西向き(森田夫妻に背を向けた姿勢)、女は男物オーバーを羽織り両腕を胸に組むようにしてその男から約一米離れて北西向き、に相対しているのを目撃し、精一が道路の中央辺を八重子がその東側を右男女と約六―七〇糎の間隔をおいて通りすぎたが、その際右の二人は黙つていたことが認められ、又森田一雄も、森田夫妻との時間的前後の関係は明らかでないが、同時刻頃無燈火の自転車に乗り、右手に煉炭の入つたカンテキを提げて同場所を通りかかつたところ、右とほぼ同じ位置に同じ姿勢で、男はオーバーを女は白つぽいものを着て佇立しているのを目撃したことが認められるのである。
しかして右三名は、目撃した時の男性の印象につきやや曖昧な節もあるが、一様に「頬骨が張つていた。」とか「頬が角ばつていた。」と指摘するのであり(前掲各尋問調書五〇一丁、五一八丁、五三六丁など)、又後日被告人を面割りした結果につき、森田八重子は「肩のあたり頬骨の張つたところが似ていると思つた。」(五〇五丁)とか、「横顔が似てます。」(五〇七丁)といい、「……私が……見たアベツクの男の人はこの山村という人に間違いないように思います。……この人の肩の怒つているかたちが非常によく似て居り、後姿も肩のあたりがそつくりな気がしました。頬骨の出張つたところや顔の輪かくが大変よく似てます。(同女の検調書四分冊一四六二丁)と述べ、又森田精一は「背恰好は一月八日の晩に見た人と思います。顔は絶対に間違いないとはいえない。山村繁は頬骨が出た人だと証人は直観していますが、一月八日の晩に見た男は暗かつたのではつきりしてません、只背恰好だけはよく似てるといえる。」(五一九丁裏)とか、「私が……見たアベツクの男はこの山村に殆んど間違ないように思います。立つている時の背恰好や顔の形などが非常によく似ています。」(同人の検調書四分冊一四六七丁)とも述べており、更に森田一雄は「肩の怒つているところがよく似てます。顔つきも似てました。頬つぺたの出張つているところなんか。」(五三八丁)とか、「一月八日の夜に逢つた男と大体間違ないと思つた。」と述べているのであつて、これらの供述と右目撃者らが異口同音を指摘する頬(厳密には下顎)の出張つているとの点が被告人のそれに符合していると思はれることよりすれば、同人らの目撃した男性は被告人でなかつたかと疑いうる余地がないでもない。
ところで、司法警察員渡辺明が一月二四日夜本件犯行現場で施行した実況見分調書(一分冊二八三丁)によると、当夜は晴天で月がなく、又右男女の佇立していた地点に直接届く光源もなく、午後七時ないし八時四〇分頃その附近の照明度は〇・一ルツクスであつて、森田八重子や森田一雄の指示する位置関係において、対象の容貌や衣類の識別が可能であつたことが認められる。それならば一月八日午後八時すぎ頃の明るさはどうであつたであろうか。この点につき大阪管区気象台長作成の「気象資料照会回答」と題する書面(六分冊二二八二丁)と電話聴取報告書(二二八九丁)によると、当日の月令は九、三、月の出一三時〇四分、月の入一時五〇分であるから、午後八時前後には月はほぼ中天に位置すると思はれるのであるが、大阪市地方の気象観測の結果では午後七時晴、同八時本曇、同九時高曇となつており、この気象がそのまま泉大津市地方のそれにあてはまるかは疑問であるけれども、他によるべきものがない以上、地理的関係からいつて大差があるとも考えられないからこれを斟酌すべく、それによると当時月は相当多量の曇に被われていたと推測され、結局一月八日午後八時すぎ頃の照明度は一月二四日見分の場合の〇・一ルツクスと同程度かそれより若干明るい位で、いずれにしてもそれ程の差はなかつたものと認めるを相当とする。そうすると右男女の佇立していた場所はその当時かなり暗い場所であつたといえるのであり、かかる場所において、前記三名の目撃者は、渡辺明の見分のごとく対象の識別が可能かという目的意識にもとづく場合と異り、未知の人を背後又は側面から行きづりに一瞬の間、観察したにとどまるのであるから、その観察の正確度に疑問なきをえないのであつて、他人の空似ということも十分考えられるし、又被告人に対する面割などの過程で誤つた記憶の補充がなされなかつたとも保し難く、結局右状況下の観察で且つ前記観察内容によつては、右三名の目撃した男性が被告人であると断定することは困難といわなければならない。
第二、被告人のオーバーとズボンに血痕が附着していること被告人の供述(第六回公判、三分冊一一〇〇丁裏)及び証人大脇こと山村えみの証言(第七回公判、一一六三丁裏)によると、押収してある紺ズボン(証第三九号)と焦茶色オーバー(証第四〇号)各一点は、被告人が一月八日当時着用していたものと認められるが、証人小林宏臣、同植田忠の各証言(第六回公判、三分冊一〇六五丁以下)及び同人ら作成の各鑑定書(一一二八丁、一一三一丁)を綜合すると、右オーバー全般に血痕鑑定の予備検査をした結査、右前裏側裾部に小豆大の陽性反応が認められ、又ズボンの右足裾内側に肉眼により小豆大淡褐色の血様斑が二ヶ所発見され、血痕予備検査の結果では陽性反応を呈したけれども、血痕確認、人血証明の各検査ではいずれも被検物微量などのために、それらを確認するに至らなかつたことが認められ、それらによると、右附着物はいずれも血痕の疑が濃厚であるが、未だ血痕であると断定できないのである。もつとも右証人小林宏臣の証言によれば、多年理化学鑑識の業務に従事した同人の経験上、予備検査において陽性反応を示した場合は、検材さえ十分にあれば本検査においても陽性反応を示し、陰性反応を示した事例が皆無であるというのであるが、この証言によつても右附着物は一応人血であるといいうるにとどまり、その血液型も判然しないうえ、それが如何にして附着したかについてもみるべき資料がないのであるから。これをもつて被告人が真崎に傷害を加えた際に付着したものといえないことは明らかであり、したがつて被告人が犯人であるとの傍証に供することはできないものというべきである。
なお右のほか巡査梶三好作成の現場指紋鑑定報告書(三分冊一二八一丁)によると、真崎が死亡当時所持していた前認定の手提鞄在中の家庭設計書(証第四八号)から被告人のと一致する指紋が採取されているのである。しかしこれは証人宇都清志の「指導員が家庭設計書を手にして説明することは多い。」との証言(四分冊一七〇三丁末尾以下)に、前認定のごとく被告人が一月七日に真崎を伴つて保険勧誘に廻つている事情を併せ考えると、その機会に被告人の指紋が右設計書に残る可能性も十分に考えられるのであるから、右のごとき事実があつたからといつて、ただちに被告人が本件の犯人であると断ずるわけにはいかない。
以上の次第で、第一、第二などで判断した証拠から認めうる状況は、それなりでは極めて証拠価値が乏しく、到底被告人を本件の犯人であると断定できないが、被告人の自白が措信できる場合は、補強証拠としてかなりの価値を有するとも考えられるから、次に被告人の自白について検討する。
第三、被告人の自白
被告人は、捜査官に対して本件の犯行を自白しているのであるが、当公廷においては冒頭からこれを否認し、右自白は警察官の暴行陵虐による苦痛に堪えかね、その誘導にもとずきなされたもので、検察官の面前における自白もその影響下になされたものであるから、任意性を欠き、その内容は虚偽であると主張する。
(一) 被告人の取調べの経過
先ず取調べの経過をみると、証人清水嘉男の証言(第七回公判、三分冊一二〇九丁以下)、同中村忠儀の証言(第九回公判、四分冊一二九四丁裏)によると、本件は、当時の大阪府警本部刑事部田村捜査第一課長(以下田村課長という。)の指揮下に、課長補佐清水嘉男警部を班長(以下班長という。)とし、警部補中村忠儀、同坂本房敏が各係長(以下中村、坂本係長という。)となり、両係長の下に主任四名と捜査員五名宛が各配属されて編成されたいわゆる清水班が中心となつて捜査を進めたものであり、被告人は一月二二日に逮捕されて以来、同月二六日まで本件の犯行を否認し、その間に被告人を取調べていた中村係長に対するその趣旨の一月二四日付二通、同二五、二六日付各一通計四通の調書が作成されているが、同月二七日坂本係長の調べに本件犯行を自白してその旨の調書が作成されその後、坂本係長に対する一月二八日付一通、中村係長に対する一月三〇日、二月八日、二月一九日付の三通、清水班長に対する二月一日、二月六日付の二通、員山名富一に対する二月四日付の一通、馬屋原検事に対する二月二日、二月一一日(二通)、二月一二日(二通)、二月一三日(三通)付の八通、山本検事に対する二月八日、二月一二日付の二通、以上合計一八通の自白調書が作成されているほかに、清水班長に対する二月一日及び二月八日の各自供が録音されており、また被告人の二月五日付「班長、係長様へ」と題する手記並びに二月八日付の供述書が存するのである。しかし被告人は、一月二七日に自白して以来、終始その態度を維持していたのではなく、証人山本嘉昭(第一九回公判)、同馬屋原成男(第二〇回公判)、同大西一雄(第一九回公判)の各証言及び大西一雄ら作成のポリグラフ検査回答書によると、被告人は、尠くとも二月二日山本検事の取調べに(六分冊二六四八丁裏、二六五九丁裏)、又二月一一日頃と二月一三日馬屋原検事に対し(二六八五丁)否認しているほか、二月四日ポリグラフ検査を受けた際にも担当技師に同旨のことを述べている(六分冊二六四一丁、二六一〇丁)のであり、なお被告人の弁疎によると(第一四回公判二二二六丁)、右のほか一月二八、二九日の中村係長の取調べにも否認したというが、その点は明らかでない。
(二) 自白の任意性
そこで被告人の自白の任意性について考えるに、証人奥田幸作は第一〇回公判において、「自分は中村係長らの本件捜査に従事していたが、被告人が自供を始めた日、その寸前まで被告人と取調室にいて宗教的な訓戒や良心の呵責に訴える話をしたり、宗教的な雑誌を見せたところ、被告人が『これから話をする』というので係長を呼びに行つたが、その後の被告人の供述は坂本係長によつて調書が作成されている。」と述べ(四分冊一三九七丁、一四〇一丁、一四〇四丁)、又坂本係長は、同公判で「自分が交替して調べるようになつたのは昼頃で、当初三〇分位は否認していたが、私自身の生立ちを話し、お前も子供や後々のことを考えてこの際はつきりした方がよいというと、被告人は『私がやつてすみません』と涙ながらに話した。」と述べ(四分冊一四四八丁)、又前記被告人の二回に亘る自供の録音テープを再生して聴くと、供述は何らの強制、誘導もなく極めて円滑、自然になされており、殊に二月八日の分では、その最終のところで取調官である清水班長に対し嗚咽しながら手数を煩わせたことを詫びていると思はれる箇所もあるし(その速記録五分冊一七六三丁以下)、更に被告人自らの手記によると(二〇三五丁)、自分が真崎を殺害し死体を傷つけたことは間違なく、遺族の方達に対して誠に申訳ない。心から後悔していると詫びている事実が認められるのである。もとより本件事案の内容、捜査の過程などからして、その自供を得るまでに捜査官より或る程度の追求がなされたであろうことは推測するに難くないけれども、前記証人清水嘉男、同中村忠儀、同奥田幸作、同坂本房敏の各証言によると、被告人主張のような暴行を加えていないというのであり、いずれにしても未だ被告人主張の事実を裏付ける資料はないのである。
このようにみてくると、被告人の自供は一応任意性を有するものと解せられるので、以下自白の真実性について検討する。
(三) 自白の真実性
(1) 一般に犯人でなければ判らない事柄が自白によつて初めて判明したというような事情の有無は、当該自白の真実性の存否を検討するうえに最も有力な手がかりを提供するものであるところ、これを本件についてみるに、先ず死体損壊の兇器が十字型ドライバーであることは被告人の自白により初めて捜査員に判つたものかどうかの点であるが、証人柴田衛敏の尋問調書(四分冊一三八一丁)によると、同人は一月一〇日午後九時から同一二時までの間、大阪大学医学部法医学教室解剖室で、田村課長、坂口巡査部長ら立会のうえ、真崎美智子の死体を解剖した際、死体損壊の兇器として十字型ドライバーが適当であると意見を述べ、その現物を取寄せて右立会者らに提示すると共に、その場で実験して自己の見解の正当なことを実証した事実が認められる。したがつて、田村課長や阪口巡査部長はこのことを熟知していた筈である。問題はこのことが清水班長以下の捜査員に伝つていたかどうかの点であるが、田村課長は証人として尋問された際(第一一回公判)、当初「清水には兇器のことは詳しくいつていない。ただ釘のようなものだといつただけだ。」と述べ(四分冊一六六六丁)、清水班長も証人として(第七回公判)、「被告人が十字型ドライバーで死体を傷つけたと自供した当時、兇器がそれだとは知らなかつた」と述べ(三分冊一二〇七丁)ながら、後刻重ねて尋問されると、田村課長は「清水に兇器は先や長さが釘のようなものである。先が三角か四角でドライバーにもこういうものがあると話したことがある。ドライバーという言葉をいつた記憶がある。自分の説明を聞いて清水は十字型ドライバーでもこういう傷がつくことを知つていると思う。図を書いて説明してやつた。」と述べ(一六七二丁、一六七五丁)、清水班長も亦これを裏付ける趣旨の供述に変えている(第一一回公判、一六七八丁)こと、並びに証人山名富一の証言(第一二回公判、五分冊一七四〇丁)、同人作成の一月二二日付差押調書(四分冊一七一七丁)及び領置調書(三分冊一一二三丁)によると、山名巡査部長は、清水班長の指示により被告人が逮捕された一月二二日午後一一時頃から死体損壊に使用した兇器などの差押のため被告人宅へ赴いたが、その際清水班長から「七寸釘とかドライバー様のものとか先の尖つたのみ……とかを重点的に調べろ。」といわれていたことなどから、一字型ドライバー二本を正式に差押えたことが認められるのであつて、これらを綜合すると、清水班長は勿論、他の捜査員も死体損壊の兇器は十字型ドライバーであることを被告人の自白以前に知つていたとみるのが相当である。そうだとすると、被告人の「死体損壊の兇器は十字型ドライバーである」との供述をもつて、真犯人でなければ判らない事柄についての自白であるとにわかに断定し難いものがある。
(2) 右のほか被告人は、一月一三日かねてより情を通じていた自己の部下松川富美子(昭和二年一〇月生)と保険金集金のため大阪府泉北郡福泉町の松本宇三郎方へ行つた際「あの子(真崎)は……溝に頭を入れて腰から下を脱がされて死んでいた……」と発言しているところ(証人松川富美子第八回公判、三分冊一二七三丁末尾(同女の二月一日付検調書二分冊六八六丁裏、松本初江の検調書六六二丁)、この時期に「溝に頭を入れて云々」という状況が犯人以外の者に判るだろうかとの疑問も一応生ずるが、松川の右調書によると、被告人は一月一二日に泉大津市池浦に行つて右のようなことを聞いて来たというのであり、事実一二日に被告人は池浦に行つていること(藤原静子の検調書一分冊二七三丁、証人中園シゲ第四回公判八五九丁裏)や、それに似たことは既に一月一一日の朝日新聞にも掲載されているのであるから、被告人の右言動を格別問題とするにはあたらないであろう。
(3) 次に清水班長、中村係長、山名巡査部長は、証人として「真崎の殺害時間が午後八時すぎないし八時半であることは、被告人の自供によつて初めて判つた。」という趣旨の供述をしている(三分冊一二一三丁裏、四分冊一三〇四丁、一三二八丁裏)けれども、前記目撃証人の供述などよりして一応一月八日午後八時すぎが犯行可能期間の始期と判断し得る資料が認められるところよりすれば、被告人の右自供があるからといつて、その真実性の担保とするにはいささか物足りないものがある。
(4) なおこの際、押収してある証第三三号の手帳の記載を検討するに、被告人の供述(第一四回公判、六分冊二一九五丁)によると、右手帳は被告人が一月二二日に逮捕された際に所持していたものであるが、事件のあつた一月八日欄に「真崎美智子死亡(悼む)」と、また同月一一日欄には「真崎美智子の死を知る。営業所はてんやわんや。」と各記載されているところ、右八日欄の記載がもし真崎の死亡時期が明らかにされる以前に記入されたものとすれば、それは犯人でなければ判らない事柄に属し、被告人が犯人ではないかとの疑を生ずるのであるが、この点につき被告人は「真崎が死んだのは九日でないかということでしたが、ハンドバツグが出たので(九日朝)、殺されたのは八日でないかと新聞にあつたことと関係し」、「後日真崎が死んだ日が判るようにと思つて一二日頃八日欄に記入した。」という趣旨の弁解をするのであつて(第一四回公判、六分冊二一九六丁、二二五三丁、二二七一丁裏、二二五三丁)、一月一二日付毎日新聞に同旨の記事が掲載されていることや、それが日記ではなく単なる心憶え程度の記載にすぎないこと、及び右手帳の一一日欄の前記記載とを考え併せてみると、被告人の弁疎もにわかに排斥し難いのである。
(5) そこで更に、被告人の当時の行動につき考える。
先ず一月八日の行動をみるに、被告人の二月一二日付山本検事に対する調書一五項(五分冊二〇八二丁)及び上申書(四分冊一五二三丁)、松川富美子の二月一日付検調書七項(二分冊六七九丁裏)、高畑久子、増田浅吉、池川清、小林令子、橋本なか、青木まさえ、沼田久子、沼田末吉、松本初江、寿信雄、芦原春子の検調書(二分冊六三二丁以下)を綜合すると、被告人は一月八日正午頃から自己所有の原動機付自転車コリー号に前記松川富美子を乗せて、堺市内の百舌鳥方面や泉北郡福泉町(旧)を保険勧誘または集金などして廻り、午後六時頃百舌鳥陵南町の寿信雄方を訪れたのを最後にして松川富美子と陵南中学校の校庭に行き、そこで同女と肉体関係を結び、午後六時半頃百舌鳥西之町のバス停留所附近で同女と別れている事実が認められる。
そして自供調書によると、被告人は、松川と別れるとすぐその足で右コリー号に乗り、走行時間約三〇分を要する泉大津市池浦方面に行き、真崎美智子を探して出会うや、コリー号を置いて同女と徒歩で我孫子街道を西進し、三信紡績の西側を深喜毛織に通ずる道に曲つて第一現場附近に達し、同女に口附けを求めて拒否されたことから同女をその場に倒すなどの暴行を加えた後に、前認定の溝の水中へ真崎の頭部顔面を押し浸けて溺死させたうえ、死体を溝の中へ遺棄して帰宅したというのである。
そこで先ず被告人が真崎に会いに行つた動機の点を調べると、一月二七日付坂本係長の調書では「……真崎が池浦方面を廻つていることを知つていたので応援のため……」(一九四五丁裏)となつていたのが、一月三〇日付中村係長の調書では「一月七日の晩には翌八日が第二関門なので我慢したが、八日も真崎が池浦方面を廻ることを知つていたので、この機会に欲望を充たしたいと朝から考えていた」(一九五六丁裏)(二月一日付清水班長の調書も同旨)と変り、更に二月八日付山本検事の調書では「真崎はこの日池浦方面へ……行つたので応援と身上相談に乗つてやりたいと思い……」(二〇三九丁)と再転しているのであつて、この変遷自体は暫く措き、被告人は一月七日真崎と右池浦方面を保険の勧誘に廻り、午後九時半頃堺市百舌鳥本町二丁一三二番地の自宅に帰つたため、内妻えみと口喧嘩をした矢先(証人山上吉子第六回公判一〇二八丁、同人の検調書四分冊一四七〇丁裏末尾、証人山村エミ第七回公判一一七六丁、被告人第一三回公判二一五三丁)のことで、しかも翌九日正午から大阪支社で開催される指導員研究会に出席して研究発表をすることが予定され、そのために相当発表内容を研究する必要があつたこと(証人宇都清志第一一回公判四分冊一六九九丁裏、証人松川富美子第三回公判三分冊一二五四丁末尾、被告人第一三回公判五分冊二一五七丁裏、第一五回公判二二六五丁裏)、更に松川と肉体関係を結んだ直後のことであるから、真崎と会う約束をしていたとか、当日を除き当分その機会が訪れないという事情でもあればともかく、そのような事情は認められないのに、多分池浦方面にいるだろうと言う見込み程度で、右に摘示のいずれの目的にせよ、わざわざ行つたということにやや釈然としないものがあり、また乗つて行つたコリー号の置き場所などにつき、一月二七日付坂本係長の調書では「池浦の神社に入る処にある自転車屋に乗つていたコリー号を預け……真崎さんが居らんかと思い……歩いていると……」(五分冊一九四六丁)となつていたのが、一月三〇日付中村係長の調書では「コリー号で探し廻り、名前を思い出せない知り合いの家にコリー号を預け引き続き探し廻つた。」(一九五八丁裏末尾以下)という趣旨に変り、更に二月一日付清水班長の調書では「コリー号で一〇分位探して……真崎を見つけ……その辺の知合の家に車を預け……」(一九八六丁裏以下)となり、それが二月四日付員山名富一の調書で「真崎を探すのに約一五分位かかり……河野の家の……田圃の角の所にコリー号を入れ……」となつているのであつて、極めて顕著な変遷を示しているところ、その変遷の理由は何ら明らかにされていない。そこでこの点を仔細に考察すると、右のような事態は、一般に供述者が、(A)事実を隠そうとしている場合、(B)思い違いや記憶の混乱を来たしている場合、(C)事実を知らない場合、にいずれも追求されて(A)の場合は更に別個の逃口上をいい、(B)の場合は、思考の整序や記憶の恢復の過程に応じ、(C)の場合は迎合的に出まかせをいうとか、他の誘導に左右されるとかして生ずる結果だと考えられるのである。そこでこれを本件についてみた場合、被告人は既に最も重要な犯行自体を認めているのであるから、右のような附随的事情を隠すためには、それ相当の理由がなければならないが、それを窺うに足る資料がなく、又その理由があるとも認められないから、Aの場合ではないのではないかとの疑が濃く、又右のような事柄につき被告人が思い違いなどするとは考えられないから、Bの場合でもないであろう。そうだとすると、Cの場合が残るのであつて、被告人は初め「自転車屋に預けた」とか「知り合いの家に預けた」と出まかせをいつて、その裏付が得られないまま捜査官の追及を受けて、最後に裏付の困難な「田圃の傍」となつたものではないかと考えられる節もあり、したがつてこれらの点について自白の真実性に疑が残るのである。なおそのほかに第一現場における真崎殺害前後の行動に関する自供も取調官の替るごとに微妙な変遷を示しており、この点についてもコリー号の置き場所に関する場合と同様の推論が可能である。
次に一月九日の行動についてみるに、被告人の第一三回公判の供述(五分冊二一六一丁以下)及び上申書(五分冊一五二八丁以下)、中川マスエ、米田二郎の各検調書(一分冊、四二八丁、四三七丁以下)、証人宇都清志(第一一回公判四分冊一六九九丁)、同山村えみ(第七回公判、三分冊一一六三丁)、同中川マスエ(第一一回公判、四分冊一六四七丁以下)、同花咲慎一(第五回公判、三分冊九四六丁)の各証言を綜合すると、被告人は、一月九日午後零時四〇分頃から大阪の支社で開催された指導員研究会に出席して、予定のテーマについて約二〇分間発表し、午後四時頃研究会を終え、一旦堺の営業所に帰つて宇都所長に研究会の模様を報告し、午後五時三〇分頃コリー号に乗つて帰宅した。そして研究会へ出席する直前に右営業所において、内妻えみから、同女の遠縁にあたりかねてより懇意にしていた堺市上野芝町四丁二九六番地の土建業花咲慎一が電気工事代金五六三〇円の請求に来たと聞いていたので、夕食後の午後七時すぎ頃コリー号に乗つて右花咲方へ代金の支払に出掛け、途中近所の高松芳夫方続いて中川マスエ方に立寄つて金二〇〇〇円を借用したうえ、午後七時半頃一人暮しの花咲慎一方へ行き、代金の支払を済ませて同人と碁を二局打ち、一勝一敗の成績で午後九時すぎ頃同家を辞したことが認められる。
そして自供調書によると、被告人は、そこからコリー号に乗つて第一現場に至り、濡れている真崎の死体を溝の中から引き揚げて、その背後から両手で抱きかかえるようにして約三〇米離れた第二現場に引き摺つて行き、仰向けにして腹部などを露出させ、所携の十字型ドライバーを持つて死体を損壊して帰宅したというのである。
ところで当時の被告人の服装につき、証人山上吉子(第六回公判・三分冊一〇一六丁・一〇二〇丁以下・一〇三二丁裏以下)・同松川富美子(第八回公判・三分冊一二四八丁末尾以下・一二六八丁)の各証言及び松川富美子の二月一日付検調書(二分冊六七四丁)九項、証人山村えみの証言(第七回公判・三分冊一一八〇丁裏以下)、被告人の中村係長に対する一月二四日付調書(五分冊一九一一丁)七項と一月三〇日付調書(一九七二丁裏末尾以下)及び上申書(四分冊一五三〇丁裏末尾以下)を綜合すると、被告人は、花咲方から直接か或いは犯行現場へ行つての帰りであるかはともかくとして、コリー号に乗つて帰宅し、被告人方から西一軒置いて隣に住み、日頃から心安く出入りしていた山上吉子(被告人の部下として保険外交に従事し、同女の夫と被告人は従兄弟)方へ行き、その玄関先で丁度居合せた前記松川富美子や山上吉子から着用の羽織が年寄りじみていると冷かされているとき、被告人の内妻えみも寝間着の上にオーバーを羽織つて入つて来て被告人に「帰つた気配がしたのにおらんと思つたらここにいたの。父ちやんどないしてたん。」という趣旨のことをいい、これに被告人が「話し声がしているのでお前も山上方にいるのかと思つて来た。」とか「金策をして碁をしてたので遅くなつた。」という趣旨の返事をしたりして、一緒に山上方四帖半の間に上り込み、山上や松川と暫く談笑していた事実が認められるところ、中川マスエ、花咲慎一の検調書(一分冊四二八丁・四分冊一五〇一丁)によると、被告人は花咲方へ行つた時には洋服を着ていたという趣旨の記載があり〔被告人の一月二七日付坂本係長の調書(五分冊一九四四丁)でも「当時オーバー洋服姿であつた」と記載されているが、同調書では「洋服姿で帰宅したところ内妻がいないと思いそのまま山上方へ行つた」というのであるから前認定の事実に反するところ、一月二八日付調書(一九五二丁)で和服であつたと訂正されているのである。〕、また山上吉子の検調書(四分冊一四七三丁)によると「山村さんの単車の音を聞いてから五、六分経つたころ山村さんが……やつて来た」というのであるから、もしそれが事実であれば、被告人は外出先から一旦帰宅して着物に着替えた後に山上方へ行つたのではないかとの疑問を生ずるが、中川マスエと花咲慎一は証人として(第一一回公判、四分冊一六四七丁・第五回公判・三分冊九四九丁末尾以下・九五四丁以下、九五八丁以下)、被告人の当夜の衣類につき充分な認識と記憶がない旨の証言をしていることや、さきに認定した事実、殊に被告人と内妻えみの問答などに徴し、被告人は帰宅するとすぐ山上方へ行つたもので、当夜の服装は着物に羽織であつたものと認めるほかないというべきである。
そこで右のごとく被告人が着物と羽織を着用したままで濡れている真崎の死体を溝の中から引き揚げ、両手で抱きかかえるようにして引き摺つて行つたものとすれば、その間に被告人の着物や羽織が或る程度濡れたり汚れたりするのは当然のことであり、また真崎のオーバーに附着していたのと同様に「いのこずち草」の種子が被告人の衣類にも附着する筈であるが、調書上それらを防止するための措置が講ぜられた形跡は認められないのである。しかるに被告人は前認定のとおりコリー号に乗つて帰宅後、衣類を改めた様子もなくただちに山上方を訪問しているのであるが、事を秘かに運ばんとする犯罪者がこのような無雑作な行動に出るとは到底考えられない。それに山上方では特に被告人が着ていた羽織に関心がもたれ、話題になつたうえ、四帖半の間で内妻ら三人の女性と世間話をしていたのであるから、被告人の着物などに水で濡れたしみとか汚れ更に「いのこずち草」の種子が附着していれば、同女らの目にとまらぬ筈はないと考えられるところ、前掲同女らの証言によるもそのようなことに気付いた者はいないのである。するとむしろ被告人の着物などには右のようなものは全然附着していなかつたのではないかとも考えられるわけで、延いては被告人は右自供内容のような所為に関係していなかつたのではないかとの疑問に逢著するのである。
次に、被告人が本件現場に行く決意をした動機は、いずれの自供調書でも「死体の状況が気にかかつた」のでとなつているところ、その決意をした時期については「花咲方を出てから」となつている調書(一月二七日付坂本係長の調書一九四八丁裏・一月三〇日付中村係長の調書一九六七丁裏末尾・二月八日付山本検事の調書二〇四一丁裏末尾以下・二月一三日付馬屋原検事の調書二〇八九丁裏)と、「花咲方へ出かけるとき」という二月一日付清水班長の調書(一九九四丁裏)に分けられ、更に現場での行動とその意図について、一月二七日付坂本係長の調書では、真崎の死体を第二現場へ「引きづつて行き……乳を吸い……それを暫くしてから抱いた儘、済まなんだと謝り、……真崎が殺害前に『あんたは松川さんを引つかけて私にもそんなことをする。」と侮辱されたことを思い出し、十字型ドライバーで真崎の死体を損壊した。」という趣旨が記述されているのに対し、その他の調書では概ね「痴漢の仕業と見せかけるため」となつているのであり、これらを前提にして、再び十字型ドライバーの点を考察すると、一月三〇日付中村係長の調書では「家を出るときコリー号が故障したら困ると思い……オーバーの内ポケツトに仕舞つていた……十字型ドライバーを着物のたもとに持つていた」という趣旨の(一九七一丁)、また二月八日付山本検事、二月一三日付馬屋原検事(二〇九一丁)の各調書によると「コリー号の掃除をしたり鍵をはずすときに使うため持つていた」(二〇四三丁・二〇九三丁裏)という趣旨の極めて対照的な記述がなされているところ、昭和三四年一二月五日被告人にコリー号を売却した自転車販売業今井二三夫の証言(第一九回公判・六分冊一六一六丁)によると「十字型ドライバーは業者がエンジンを分解するときに使い、素人はエンジンの智識がないから殆んど使わない。被告人も始動して乗る程度でエンジンの修理はできないと思う。十字型ドライバーはコリー号の備品になつていない(この点で山村進の第五回公判における証言九〇一丁は誤解ではないかと思われる。)。泥落しは通常ワイヤーブラツシを使い、十字型ドライバーだと車体に筋がつくと思う。錠をあけるのには十字型ドライバーは不要である。」という趣旨の説明がなされているのであつて、これによると、被告人が前記のようないずれの使用目的のためにもせよ、日頃から十字型ドライバーを所持していたということ自体に疑をさしはさまざるを得ないのであり、それにもまして、自供調書によると、被告人は前掲のとおり死体が気にかかつたので右現場に行く気になつたと言うのであつて、死体損壊などを予定していた形跡はないのであるから、仮に被告人が花咲方へ行く前から現場に行こうと考え、且つその使用目的が前記のいずれであつたにせよ、わざわざ十字型ドライバーを着物の袂に入れて行つたということに疑問があり、それに加えて十字型ドライバーの使用後の処分についても、一月二八日付坂本係長の調書では「玄関右隅に吊つてある棚の上の道具箱の中に入つていると思います。」(五分冊一九五二丁裏末尾)となつていたのが、一月三〇日付中村係長の調書では「家に帰つてから、着物の袂に手を入れてみますと、確かに入れた筈のドライバーがありませんのではつとしました。……おそらく逃げ帰る途中落したものと思われます……。」(一九七三丁裏)と変り、更に二月六日付清水班長の調書によると「帰宅する途中で無くなつているのに気付いた。」という趣旨(二〇一三丁裏)に変更されているのであり、しかもこの点につき綿密な捜査がなされているのに十字型ドライバーは遂に発見されるに至つてないのであつて、この被告人の供述の変遷についてもコリー号の置き場所に関する場合と同様の疑問を拭い去ることができないのである。
以上、被告人の自供調書の内容を仔細に検討してみると、幾多の疑問に逢著し、それらはいずれも未だ氷解するに至つていないのであるから、被告人の自白をそのままただちに信用するわけにはいかず、その内容の真実性につき合理的な疑をさしはさむ余地を残しているというべきである。
このほか各種の証拠を精査するに、被告人が本件の犯人ではないかと疑いうべき資料もあるが、これを確定するに足る資料は遂にえられなかつた。したがつて被告人が本件の犯人であることの証明はないことに帰するので、刑事訴訟法第三三六条に従い被告人に対して無罪の言渡をする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 国政真男 上田次郎 石田眞)